Thursday, August 27, 2020

「食べる」とは、世界に対する究極的な信頼の表明:伊藤亜紗が、循環と分解、利他性、視覚障害から「食の未来」を語る - WIRED.jp

「食べる」に欠けている、分解のデザイン

伊藤亜紗(以下、伊藤) わたしが「食」を深く考えるきっかけになったのは、子どもが生まれたときでした。母になり、「授乳」をすることで、食の「循環」と「信頼」──この2つの感覚に思いを馳せるようになりました。

「循環」というのは、食が地球や生命の循環のなかにあるという感覚です。食べたものから、自分ではコントロールできないプロセスで母乳がつくられ、それを別の生命が取り入れ、分解・排出する。母乳がつくられるプロセスは究極の料理だなと思いました。人間はつくる・食べることは考えても、分解・排出のことはあまり考えません。ですから、その自然のサイクルのなかに自分が組み込まれていたこと、自分にそんな能力があるなんて考えたこともありませんでした。

先日、福岡で特別養護老人ホーム「よりあいの森」を運営している村瀨孝生さんと対談する機会がありました。そのなかで、村瀨さんは、「自分の仕事は分解を助けること」だと話しています。「人間らしい生活」というと抽象的な価値を連想しますが、その根底には生理的な快・不快があり、その欲求を実現していくことが結果的に人間らしさを支えます。高齢者施設は多くの場合、タイムスケジュールがきっちりと決まっていますが、それは人間社会のルールであって、高齢者の生理とは関係のない管理の設計がなされています。

人間は生産だけに目がいきがちですが、人間の生理にいかに添うかを考え、消化・分解・死に正しく向かうことも「人間らしさ」の重要な側面です。「食」においても、食べた瞬間の味覚にとどまらず、数十時間は身体のなかに残るものが消化されていく過程をデザインすること、「分解のデザイン」が重要なものだと感じます。

文化人類学研究者の奥野克巳さんによる著書『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』には、ボルネオ島の狩猟採集民「プナン」が毎朝おならをしあって、品評をするというエピソードが紹介されています。彼/彼女らは分解・排泄を「けがれ」とみなしていないのです。さらに、決まった場所で排泄すると、そのまま動物が食べていくといった、授乳とおなじ循環が存在する。排泄に対するさまざまなアプローチがあると考えさせてくれるエピソードでした。

食べることは、世界への究極的な信頼の表明

また「信頼」についてもお話すると、食べることは信頼がないと成り立たないということを、授乳からダイレクトに感じたんです。何かを口にするということは、それによって自分が死ぬかもしれないリスクを常に伴っています。ところが赤ん坊は、わたしの体から出た体液を100パーセント信じて、かつ必要としている存在である。赤ん坊が向ける信頼の大きさが、自分を母親にしたように思います。食べるという行為は、世界に対する究極的な信頼の表明なのではないか、そう思うのです。

社会心理学の分野で「信頼」について語られる際は、「安全・安心」と「信頼」は実は対義的な関係であると解釈されています。安心・安全は自分がコントロールできない不確定な要素をなくしリスクを限りなくゼロにすることです。わたしが大学で教えるなかで、両親にGPSによって自らの位置情報を伝えることを義務付けられている女学生がいました。22時を過ぎても大学にいると、彼女のご両親から連絡があるのです。もちろん、この行為によって安心・安全は生まれますが、そこに信頼はありません。

大学や企業などの組織においても、人を管理するための事務作業が膨大に増えており、そこに時間と労力を割かれてしまって、肝心の仕事ができなくなってしまう、という本末転倒の事態が生じています。

つまり、信頼とは「相手に任せること」なのです。100パーセント安全な領域などありはしないのに、そこを突き詰めると労力が肥大化して不合理になっていく逆転現象が起こります。安心・安全は大事ではありますが、どこかで「信頼の領域」に進んでいくことが、結果的には合理的なのです。

赤ん坊なんて品質保証などないまま親を100パーセント信頼してものを口にします。人間の最初の食事が完全なる信頼のうえに成り立っている。これはとても尊いことであり、わたしにとって非常に興味深いことでした。

でも、だからこそ病気や障害などで食べることに慎重にならざるをえない場合には、世界に対する関わり方そのものが変わってしまうのだと思います。その重みを含めて、食のことを考えていかなければならないと思います。

食のテクノロジーが支えるべき、体調と冒険心

GPSの例にあるように、テクノロジーは放っておくとすぐに安心・安全を補強する方向に向かいます。安全と信頼がトレードオフの構造になることで、人間の冒険心にも影響すると考えています。

完全栄養食や調理の自動化、宅配サーヴィスなど、デジタルテクノロジーによって「食」は大きく変わろうとしています。特に、宅配サーヴィスはパンデミックの状況下で利用する方も増えたのではないでしょうか。わたしも宅配サーヴィスを利用していましたが、自分の体調に関係なくまとまって届くことがストレスだった、というのが正直なところです。

体調によって食べるものや調理法を選択することは幸福感に直結します。また、病気になったり体調が悪ければ、人はどうしても安定に向かってしまいます。逆に体調がよければ、冒険をする余裕が生まれます。冒険して「美味しくなさそう」な料理を食べてみることが重要で、冒険の結果の失敗やまずさのなかにあるおいしさに気づく感性の幅も大事なのです。ですから、食べる前の体調に関わる柔軟な食の仕組みやテクノロジーが、わたしが「食の未来」という言葉を聞いたときに想起するものです。

善行でなく、コントロールしないことがもっとも利他的である

わたしが勤務する東京工業大学で「未来の人類研究センター」を立ち上げ、「利他」をテーマに掲げて研究しています。「利他」といえば、他人に手を差し伸べる善行がというイメージがありますが、わたしのなかには「善行」への不信感が昔から存在します。

わたしは障害者の身体のあり方に関してフィールドワークやインタヴューなどを重ねることが多いのですが、彼らと話をするなかでよく挙がるのが、「健常者に善意を一方的だと感じることがある」という声です。

とある全盲の女性は、見えなくなってからの生活が「毎日観光バスに乗っている感覚」だといいます。段差など、日々の生活のなかで障壁となりそうなことを周囲の人が説明してくれるからです。

障害者の方々はどうしても認知に時間がかかるので、時間がかかってるうちに健常者が介入する。それは必要な手助けではあるのですが、いつもいつも先回りされてしまうと、自分で世界をダイレクトに認知して、その意味をかたちづくる機会が失われてしまう。それは、その人の尊厳を失うことにつながってしまいます。よさそうに見える行ないであっても、場合によっては、助ける側のなかに正義を実行するための道具として他者を支配することになってしまいます。

わたしが彼/彼女らとの会話を通じて感じるのは、人をコントロールしないことがまずは利他の入り口なんじゃないかということです。どんな行動であっても、その結果はわからないという前提がなければ、誰かをコントロールしてしまう可能性がある。わかりやすい善行よりも、スペース・余裕を自分や組織の中ににつくることで偶然の出来事がやってくる。その芽を育てることが「利他的」であることなのです。

食における「利他」を考えたときに、面白いのは「器」の利他性です。器は料理があってはじめて完成するという、利他的な存在なわけです。

ILLUSTRATION BY AYAME ONO

美味しいという“低級”な感覚が、新たな世界に導く

わたしは「美学」の研究者ですが、美学は決して美しさについてだけを考えるものではありません。感性や芸術作品など、言語化しにくいものを言葉を使って分析する。哲学と近い分野ではあるものの、哲学と比べて言葉に対する警戒心も強く、人間の言語による表現の難しさそのものを扱う分野でもあります。

西洋の価値観だと、五感にある種のヒエラルキーがあります。視覚・聴覚は高度な精神的感覚として捉えられていて、触覚・味覚・嗅覚などの動物的で対象に直接接触する、欲望や衝動に直結するものは低級な感覚に位置します。

わたしにとって、この「低級な感覚」というのが非常に面白い。手触りのいいものに触れると快感が生まれたり、ボクシングなどの接触するスポーツは闘争心に火がついたり、冷静ではいられなくなるような、よくわからない衝動が触れることによって生まれます。つまり、「触れる」という行為は、自分が合理的な存在でないことを確認できる、自分の外の世界に連れて行ってくれる行為なのです。

そして、それは味覚にも存在するように思います。味わっているうちに食欲が湧いてきたり、よいにおいがしたらそっちに行ってしまいますよね。「美」は羊が大きいと書きますが、大きく太った美味しそうな羊が「美しい」という言葉のルーツにあります。東洋では、「美」と「美味しそう」はリンクしている。「美学」が成立したのは西洋ですが、このような「美」の捉え方は西洋の美学にはあまりありません。このような東洋的な美と食の捉え方が非常に興味深いのです。

視覚障害者の世界が提示する、味覚の多面性

障害者の方々のへのフィールドワークのなかで、彼/彼女らの「美味しい」という感覚への関わりあいは、大きな気づきを与えてくれます。

以前、森美術館で「視覚のない国をデザインしよう」をテーマにしたワークショップを行なったことがあります。H.G.ウェルズの短編に、全員が先天的に全盲である国を描いた「盲人国」という作品があります。これを全盲の方と読んだ際に、「描写が甘い」という感想が挙がり、だったら自分たちで考えてみようとなったのです。

全員が先天的に全盲であったらその国はどんな姿をしているか。法律や教育、建築、言語といったテーマごとにディスカッションし、最後の日にさまざまな分野の専門家にかたちにしてもらいました。そのテーマのひとつが「食」で、全盲の家族がいるコックさんに盲人国の料理をつくることをお願いしました。彼が考えたのは、結局、「ものすごくおいしい普通のパスタ」でした。「美味しさ」に関しては、身体条件が異なっても変わらないというのが彼の考えだったのです。

そのときコックさんが面白い話をしてくれました。例えば、温かい料理にレモンを絞ってエキスをかけたとき、実は柑橘類の香りの多くは飛んでしまうらしく、香りを感じさせるのは絞るときに手についたエキスなのだそうです。つまり、動作を介助者が助けてしまうとレモンをかける意味がなくなってしまう。料理の際に健常者が全盲の方をサポートすることにとても慎重だったのです。

このとき、レモンを絞るという行為を含めて食なのであり、サポートが障害者にとっての能動性や偶発性、また余地を奪ってしまう可能性があると、改めて気づけました。

ILLUSTRATION BY AYAME ONO

緊張の武装を解き、感性を許す食の可能性

伊藤が美学者の観点から語った食における「循環」と「信頼」、瞬間的な味覚にとどまらない五感の可能性、障害者との対話を通して気づいた「美味しさ」の多面性は、パンデミックが加速させる安全・安心の追求に新たな視点を与えるものだ。

「食の自由」を目指し、「食の未来を楽しくする」をミッションに生活者データを解析。外部プレーヤーと共創して新事業をつくる、味の素(株) 生活者解析・事業創造部の佐藤賢から、味覚の代替性、自由と信頼を両立する食についての疑問が投げかけられた。

佐藤 たとえば、味覚を失った方が味覚を感じるために、ある感覚器官がもつ役割を異なる器官が代替する可能性はあると思いますか?

伊藤 自分がもっていない能力を別の方法で代替することは、障害のある多くの方が行っていると思います。例えば、ある色盲の画家は、色彩がもつ効果をいかに色彩以外のかたちで表現するかを考えています。また、小説が好きな聴覚障害者が、背後から人が近づいてくることの怖さなど、「聞こえる」ときの感覚を聞こえないにも関わらず知っている。

佐藤 なるほど、それは興味深いですね。

伊藤 食にもそういった可能性があると思いますし、そこを代替することが、食の自由を拡張することにも繋がるのではないでしょうか。

佐藤 「食べることは世界への信頼の表明である」という伊藤さんの言葉は非常に示唆に富んでいると感じました。食を自由にするためには高い次元での信頼が必要となりますが、食品メーカーとしてそれを考えたとき、「料理を不自由にしているのはレシピであり、レシピは料理をする人への信頼がないゆえに存在する」とも考えるんです。

伊藤 そうですね。だから、わたしは滝沢カレンさんのレシピ本が好きだったりするんです(笑)。彼女のレシピは本当に自由だから。

レシピは調理方法を数値化・言語化して、つくる人間と出来上がる食べものをコントロールするものですよね。しかし食材は毎日状態が違うので、本来であれば食材や体調の声を聞きながら数字と感性の双方を使ってつくり、口にいれるのが食の本質的な楽しみ方だと思うんです。彼女のレシピ本は感性に全振りしていてるのが新鮮なんです。

佐藤 伊藤さんは「リベラルアーツは自由にするための技」とおっしゃっていますが、食を自由にするための技とはどのようなものがあるとおもいますか?

伊藤 わたしの大学教授としての仕事は、学生に「感じさせること」だと思っているんです。でも、これが案外難しい。

佐藤 感じさせること、ですか。

伊藤 最近の学生に感じるのは、感情を出すことへの抑制がとても働いていること。授業で作品の感想をきいても、「感じ方の正解」を探してしまう。

佐藤 受験競争を経ていることもありますし、インターネットで不用意な言動をとるとすぐに叩かれてしまうわけですよね。

伊藤 そうですよね。学生は感情が合理的な判断を邪魔するものだと考えている傾向があると感じます。だから、自分なりに感じるまでの武装解除、緊張を解いて信頼をつくることが授業の最初のミッションなんです。

緊張してたらご飯は美味しくないですよね。食べログやランキングなどのレコメンデーションなどもそうですが、外からの指標以外の自分なりの感性を許すことが必要です。感情と理性は対立するものではありませんから、それを両立することは食についても言えることだと思います。

伊藤亜紗 | ASA ITO
東京工業大学 科技術創成研究院 未来の人類研究センター長。MIT客員研究員(2019)。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学芸術学専門分野博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)など。WIRED Audi INNOVATION AWARD 2017受賞。

味の素(株)| FUTURE FOOD TALK

石川善樹、クリス・アンダーソンらが『食の未来』を語ったコンテンツも、味の素のウェブサイトに掲載中

ドミニク・チェン、「食の未来」を語る。発酵、ウェルビーイング、共在感覚というキーワードから見えてくるもの

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August 28, 2020 at 08:00AM
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