Saturday, October 23, 2021

共に食べること、飲むこと(10月24日) | 福島民報 - 福島民報

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蛙眼盃叩粥乞食噛喋[かえるめさかづきたたかゆこじきかしゃべ]

 食べること、飲むことをめぐるフォークロアには、なにか頭がクラクラするような謎めいたものがある。『性食考』という不思議な本を書いてから、人がものを食べる場面や情景が気になって仕方がない。でも、コロナ騒ぎが始まってからは、家族以外の人たちと食べたり飲んだりすることは、めっきり減った。飲食店が規制の狙い撃ちにされてきたが、なんだか落ち着きがわるい。コロナウイルスがもっとも変容を強いているのは、食にまつわる風景のなかでも、共に食べたり飲んだりする場面ではなかったか。

 だから、いささか唐突ではあるが、わたしはグリム童話の「蛙[かえる]の王さま」を思いだす。だれでもご存知のメルヘンだろう。けれども、黄金のまりを泉の底から拾ってくるお礼に、蛙がお姫さまに突きつけた要求なんぞに眼[め]を留める読者は、あんまりいない。蛙が求めたのは二つだけ。ひとつは、お姫さまのかわいらしいお皿と盃[さかずき]で一緒に食べたり飲んだりすること。いまひとつが、お姫さまのかわいらしいベッドで一緒に寝ること。あらわに言ってしまえば、共に飲み食いしてセックスをすることだ。お姫さまが腹を立てて壁に叩[たた]きつけると、魔法が解けて、蛙は美しい王子さまに姿を変える。心がざわつく。

 困ったときのわたしの知恵袋は、いつだって柳田国男である。「モノモライの話」という、とびっきり変なエッセイがある。なぜ、眼の腫れ物がモノモライと呼ばれるのか。柳田によれば、その名前の起こりは、これを治す手段として他人の家の物をもらって食べる習慣があったからだ。谷や橋を渡らずに、七軒の家から朝の粥[かゆ]をもらって食べると治るのだ、とか。それで七軒乞[こ]食[じき]ともいうらしい。ここでも、実はテーマは共に食べることである。食物によって分かちがたい連鎖を作ることが、人間の社交にとってもっとも原始的な、大切な作法であった、という。

 「酒の飲みようの変遷」というエッセイもある。そこで、柳田はさりげなく、酒は本来は女の造るものと決まっていた、かならず集まって飲むものと決まっていた、と言ってのける。託宣のようなもので、わたしなどはその抵抗しがたい魅力にやられてしまう。酒造りと女人禁制など知ったことではない。古事記にだって、乙女が米を噛[か]んで酒を醸したと語られている。いや、晩酌やら孤食なんてものは、人としての本来的なあり方からは断絶していることを、柳田は断固として告げ知らせていたのだ。

 やがて、わたしたちはコロナ以後を再建しなければならない。きっと、共に食べ、共に飲むことこそが、人間が人間らしくあるための第一歩であり、本義なのである。いつだって共同の力が試されている。大学の先生であるわたしが、Zoom越しにしか学生の顔を見たことがない。安い居酒屋で飲み食いしながら、お喋[しゃべ]りしたことがない。二年足らずの空白の意味が、うまく想像できない。人間であることを禁じられた日々の向こうに、眼を凝らすことにしよう。(赤坂憲雄 北方風土館館長)

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