本紙政治面の記事で、「同じ釜のめしを食べた仲」という表現が出てきた。日常的によく見聞きするもので、特におかしなことはなさそうだ。
しかし、校閲部員として、ことわざや慣用句が出てきたら、どんなときも確認するようにしたいと心がけている。今回も調べると、「生活を共にした親しい仲間であることのたとえ」「苦楽を分かち合った親しい間柄」などと解説されていた。
調べていると、あることに気が付いた。多くの解説には、「同じ釜の飯を食べた仲」ではなく、「同じ釜の飯を食った仲」として取り上げられている。ただ、実際には「~食べた仲」も数多く使われている。
「食う」と「食べる」。食べ物を口に入れる同じ動作のことだ。しかしこの2つを単純に入れ換えることはできない。
「道草を食う」と言っても、「道草を食べる」とは言わない。「話が食い違う」とは言っても「話が食べ違う」とは言わない。
辞書に、「現代語では、食する意では『食う』がぞんざいで俗語的とされ、一般に『食べる』を用いる。しかし、複合語・慣用句では『食う』が用いられ、『食べる』とは言い換えができないものもある」とある通りだ。
「食う」は男言葉だから、女性は「食べる」というように教えられた、という声もある。
「同じ釜のめし」も、もともとは「食った」が用いられてきたが、次第に「食べた」が使われるようになってきたということだろう。
なぜこのように変化するのかは分からないが、面白い現象だ。
ここで、もう一つ気になった。「同じ釜のめし」と言っている。めしというのも「ぞんざいで俗語的」な言い方ではないか。「ご飯」と言うべきだろう。
「食う」が「食べる」になったのだから、「めし」は「ご飯」になるのではないだろうか。
「同じ釜のご飯を食べた仲」となるのではないか、と想像してみる。
しかしよく考えてみると、「めし」は根強い人気があり、さまざまに使われている。かつてはイタリア料理のことを「イタめし」といったりした。囲碁や将棋のニュースでは、対局の内容そっちのけで「勝負めし」に注目が集まった。「サラメシ」はサラリ-マンの昼食をテーマにしたNHKの番組名だ。
どれも「~ご飯」にはない、「~めし」ならではの味わいがある。「同じ釜の飯を食べた仲」という言い方が定着するのかもしれない。
(ま)
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